映画「メタモルフォーゼの縁側」を観たよ


 一緒にお茶をすすって、お茶菓子を食べて、習字を教わって、好きな漫画の話をして。同じ趣味をきっかけに出会ったふたりが過ごす、ゆったりとした時間。その全てが見ていて愛しくて、きっとすごく特別な時間だと思った。学校が終わってすぐ走って雪さんの家に向かううららがきらきらしてたんだもん。私にも雪さんみたいなお友達がいたらな、なんて思ったりした。

 「好き」が生活を彩っていく丁寧で鮮やかな描写が大好きだった。ふたりの日々がずっと続けばいいのにと思わず願ってしまった。

 

 

 好きなものを皆の前で好きと言ったり、やりたいことが明確にあってそれを実行に移せたり。それができる人を見ると少しだけもやもやしてしまうことがある、「ずるい」と思ってしまうことがある。でも本当は、それをすごく羨ましく思ってもいる。そんなうららに既視感があったのは、私にも他者を理不尽に「ずるい」と思ってしまうことがあるから。
 私には、他人の「好き」と自分の「好き」を比べて、自分のそれが劣っているような気がして落ち込んでしまうこと、そのせいで自分の「好き」への自信を失いかけてしまうことがある。自分の「好き」を輝かせることのできる人はすごくて、かっこよくて、ちょっと、ずるい。だからこそ、その裏で「本当にずるいのは自分なのに」と感じる後ろめたい感覚にも、覚えがあった。
 人と関係を深めるということは、その相手の人生や時間に足を踏み入れるということだと思う。ずっとしたかった好きな漫画の話ができるお友達だから、自分にとって都合がよいからと雪さんの生活に踏み入ろうとしている自分を、うららは「ずるい」と思ったのかな〜。

 

 いちばん印象的だったのは、雪さんに聞かれたおすすめの本たちを大事そうに胸に抱えて、すこしびくびくしながらも、雪さんのお家にまっすぐ向かううららの姿。漠然と、好きは守らないと、と思った。自分の好きを他人に知られるのが恥ずかしくて、同級生みたいに自分の好きを話せなくて、それでも、うららの「好き」は、うららだけのもの。私の「好き」だって、私だけのものだ。それを他人に侵されまいと必死で守り抜こうとすることは、きっと悪いことじゃない。これはちっぽけな私なりの、ちっぽけなプライドだ。「好き」を必死に抱えていくうららを見て、そう思った。

 一日の終わり、居間に腰を下ろし眼鏡をかけて、わくわくした面持ちでページを開く雪さん。「がんばれー!負けるなー!幸せに、なれー!」と興奮しながら、好きな漫画の話をする雪さん。うららが家に来る度に、心底嬉しそうに顔を綻ばせる雪さん。
 雪さんを見ていると、梶井基次郎の詩「密やかな楽しみ」を思い出す。端から見たら無価値なものだって、通りすがりのあの人に伝わらなくたって。その人にとって心ときめくものだったら、それは立派な、誇るべき「好き」だと思う。ふふっと思わず笑っちゃうような、その人だけの些細な楽しみが日々を繋いでいくんだろうし、雪さんの、うららの、私だけの「好き」を、他の誰かに分かられてたまるか!と思うのだ。

 

 あとは、うららのすぐ近くにつむっちがいたこと、本当に救いだな〜!と。何かと気にしいなうららに対して、うららのことが羨ましいと話す紡くん。「私なんか」と自身を卑下するうららに、いつだってフランクに話しかけ続ける紡くん。誰かが無意味だと思うものでも別の誰かにとっては宝物なんだよ、と言われているみたいで、私の心まで掬い上げてもらった気持ちだった。コミケの日につむっちが現れたときは流石に、「太陽さんだ…!!」って言いそうになっちゃったよね。

 

 登場するキャラクターそれぞれにいろんな部分での繋がりがあって、みんな知らぬ間に誰かに少しずつ影響を与えあっていた。コメダ先生の漫画に元気をもらっていた雪さんとうらら。ふたりの書いた漫画を読んで元気になったコメダ先生。書く(描く)ことは人を繋いで、縁を幾重にも紡いでいくんだなと思ったし、やっぱり、人の想いは繋がるときはちゃんと繋がるのだと、信じていたいな。
 そう思えたからこそ、私も好きな人たちに手紙を書きたくなった。私もきちんと想いを伝えたい。その人のために、というよりも、私が後悔しないように、私のために、伝えたいと思う。あなたのおかげで私はたくさん変わったよ、ありがとう、と伝えたい。

 

 

 

 うららと限りなく近い年齢で、譲れない「好き」があって、うららと近いワクワクやモヤモヤを味わっていた今、この作品を観ることができて本当によかった!☺️素敵な出逢いでした。